逆さの樵面

逆さの樵面

836 1/12 sage 2005/12/11(日) 20:07:10 ID:CUnu3Rn40

時は下って昭和40年。
私の父が舞太夫としての手解きを受けたばかりの頃です。
大正時代に高橋家より面が見つかって以来、役場を中心に各旧家の協力の下、あれだけ捜索されても発見されなかった樵面が、あっさりと出て来たのです。
人々を震え上がらせる呪いとともに・・・

当時、在村の建設会社に勤務していた父は職場で「樵面発見」の報を聞きました。
社長がもともと舞太夫で、父に神楽舞を勧めた本人だったため、早退を許してもらった父は、さっそく面が見つかったという矢萩集落の土谷家へと車を走らせました。
もともと山間の千羽でも、特に険しい地形にある矢萩集落は町ほど露骨ではなかったものの、いわゆる部落差別の対象となるような土地でした。父のころにはまだその習慣が残っていて、あまり普段は足を向けたくない場所だったといいます。

その集落にある土谷家は、もともと県境の山を越えてやってきた客人の血筋で、集落では庄屋としての役割を果たしていたようです。
江戸時代から続くといわれるその古い家屋敷に、噂を聞きつけた幾人かの人が集まっていました。
その家の姑である60年配の女と役場の腕章をつけた男が言い争いをしており、その間に父は先に来ていた太夫仲間にことのあらましを教えてもらいました。
どうやら、その日の朝に役場へ匿名の電話が入ったようです。
曰く「樵面を隠している家がある」と。
それは土谷家だ、とだけ言って電話は切られました。
不審な点があるものの、とりあえず教育委員会の職員が土谷家へ向かい、ことを問いただすと「確かに樵面はある」と認めたのでした。

言い争いは平行線だったようですが、とりあえず土谷家側が折れて父たちを屋敷へあげてくれました。
歴史ある旧家だけあって広い畳敷きの部屋がいくつもあり、長い廊下を通って、玄関からは最奥にあたる山側の奥座敷の前で止まりました。
どんな秘密の隠し場所に封じ込められていたのだろう、と想像していた父は拍子抜けしたといいます。
姑が奥座敷の襖を開けたその向こうに、樵面の黒い顔が見えたのです。
しかしその瞬間、集まった人々の間に「おお」という畏怖にも似た響きの声が上がりました。
「決して中へは入ってはなりません」と姑は言い、悪いことは言わないからこのままお引取りを、と囁いたのです。明かりもなく暗い座敷の奥から、どす黒い妖気のようなものが廊下まで漂ってきていたと、父は言います。
締め切られていた奥座敷の暗がりの中、奥の中央に位置する大きな柱に樵面は掛けられていました。
しかしその顔は天地が逆、つまり逆さまに掛けられているのです。
しかも柱に掛けられていると見えたのは、目が暗がりに慣れてくるとそうではないことに気づきます。
面の両目の部分が釘で打たれ、柱に深く打ち留められていたのです。
「なんということをするのだ」と古参の舞太夫が姑に詰め寄るも、教育委員会の職員に抑えられました。
「とにかくあれを外します」と職員が言うと、姑は強い口調で

「目が潰れてもですか」

父は耐え難い悪寒に襲われていました。
姑曰く、あの天地を逆さにして釘を目に打たれた面は、強力な呪いを撒き散らしていると。そしてこの座敷に上がった人間は、ことごとく失明するのだと言うのです。「バカバカしい」と言って座敷に入ろうとする者はいませんでした。
古い神楽面には力があると、信じているというより、理解しているのです。だからこそ、翁面を小さな行李に入れ、また「1年使わないと表情が変わる」といわれる般若面の手入れを欠かさないのです。入らずには面を外せない。入れば失明する。だからこそ、土谷家ではこの奥座敷の樵面を放置していたわけです。
調度品の類もない畳敷きの座敷は埃と煤で覆われていました。
明治の前よりこのままだと、姑は言いました。
何か方法はないかと考えていた太夫の一人が、「あんた、向かいの太郎坊に取りに入らせたらよかろう」と手を打ちました。「あれはめくらだから」と。

父はなるほど、と思いました。
確かに土谷家の隣家の息子は目が見えない。
彼に面を外させに行かせたらいいのだ。
ところが、姑は暗い顔で首を振ります。
そしてこの樵面の縁起を訥々と語り始めたのです。

 

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