逆さの樵面

逆さの樵面

836 1/12 sage 2005/12/11(日) 20:07:10 ID:CUnu3Rn40

私が生まれる前の話なので、直接見聞きしたことではなく、その点
では私の想像で補ってしまう分もあることを先に申しておきます。
それから地名、人名等は仮名としました。
もったいぶった始め方ですが、この話の終わりには家の戸口に影が立つこともあるかも知れません・・・

私の生まれた村はつい先日合併によって閉村し、別の名前の町に生まれ変わりました。
しかし千羽神楽の名は残っています。
室町時代から脈々と続くこの夜神楽は、かつて村の4つの家によって継承されてきました。
稲には実りを、また山には厳しい寒さをもたらす神々を、歓待し楽しませるための舞を踊るのです。
村にある神社を1年間で順繰りに回り、氏子たちが見守る中で夜が更けるまで舞い続けます。
舞うのは4つの家の太夫と、かつては決まっていたようですが現在では1家を除いて家筋の消息が不明となり、若者不足も重なって舞太夫には誰でもなれるようになっています。
もともと4家に神楽を伝えたのは熊野より落着した日野家であると、資料にはあります。
当主であった日野草四郎篤矩がそのとき持参したといわれる神楽面が、のちに村の家々の戸口に影を立たせることになるのです。

千羽神楽では素面の舞もありますが、面をつけての舞がほとんどです。
神楽面は舞太夫が人から人外のものへと変わるための装置であり、衣装を合わせ面をつけた時、それは太夫ではなく鬼神や魔物そのものが舞っているものとして認識されます。
そのため、神社の中とはいえ人の領域の内に鬼神を招くための結界として、はじめに注連縄が張られるのです。
受け継がれてきた古い面には力があり、けして粗末な扱いをしてはならないとされています。
江戸中期に記された『千羽山譚』には、「特に翁の面は怪力を持ち他の面と同じ行李に入れていては、他の面を食い破る」という不気味なことが書かれており、現在も神楽面の中で唯一翁面だけが竹で編んだ小さな行李に単独で保管されています。
私の父はこの翁面の舞手でしたが、いつもこの面を着けるときだけは手に汗が浮くと言っていました。

さて、室町時代より500年にも亘って続く千羽神楽ですが、その長い歴史の中で演目が亡失するということもあったようです。千羽郷に赴任された役人の古河伝介が記したという『千羽山譚』や、その他の旧資料に現れる神楽の記述によると、もう舞われなくなっている4つの舞があることがわかります。
このいずれも、面も祭文も残っておらず、資料の挿絵によって衣装が辛うじてわかるくらいでした。
ことの発端は、この失われた舞が復活する次第よりはじまるのです。

大正11年の5月11日、神楽面が出て来たという通報が村役場にありました。
高橋家という旧家の土蔵より、幾ばくかの資料とともに2つの神楽面が発見されたというのです。
高橋家はかつて数代にわたって神楽の座長を務めたといわれており、何代か前にあとを襲う男児に恵まれなかった折に養子を招き、神楽からは離れていったようです。
そしてなんらかの理由で次の太夫にこれらの面と舞を伝えることもないまま、演目が亡失するという事態に至ったということでした。

さて、面は出て来たものの舞の復活には至りません。
祭文が出てこないのです。

しかし、失われた神楽舞の復活に賭ける気運が高まっていたため、千羽神楽を興した日野家のルーツである熊野へ人を遣り、近似の舞から演目を起こすというという計画が持ち上がっていました。
そんなとき、計画を主導していた当時の座長である森本弘明氏が不思議な夢を見たのです。

弘明氏は消防団の団長も勤めていた人物で、公正で篤実な人柄が認められていたといわれています。
その彼が神楽が催されたある夜に、舞い疲れて家に帰らず神社の社殿で一人眠っていたとき、真っ暗な夢が降りてきたと言うのです。
夢で深山の夜を思わせる暗闇の中にひとり佇んでいると、目の前に篝火がぽっと灯され、白いおもての奇妙な服を着た人物が暗闇の奥より静々と進んできました。
良く見ると白い顔は神楽面で、高橋家の土蔵より発見された山姫と呼ばれる面だったのです。
格衣に白い布を羽織り、山姫の面を着けた人物は篝火の前まで進み出ると、弘明氏に向かってこう言いました。

『これより、山姫の舞を授ける』

そして静かに舞いはじめたのです。
弘明氏はこれはただの夢ではないと直感し、その舞の一挙手一投足を逃すまいと必死で見ていたそうです。やがて山姫が舞い終わると、篝火が消え深い闇の帳が下りました。
しかしまだ夢が覚めないのです。
また篝火が灯りました。
こんどは赤く猛々しい鬼神ような面をつけた人物が現れました。
そしてこう言うのです。

『これより、火荒神の舞を授ける』

山姫の舞から一転して激しい舞がはじまりました。そしてその面はやはり土蔵から見つかった面だったのです。舞が終わるとふたたび篝火が消え、また灯りました。

こんどは格衣に烏帽子姿の人物が闇の奥より現れました。
面を着けていない素面で、その目じりには深い皺が刻まれた初老の男でした。

『これより、萩の舞を授ける』

その声を聞いて明弘氏はすべての舞を演じたのがこの人だと悟ったのです。
明弘氏は、舞を見ながら涙を流したと言います。
どの舞も情熱的で、人が舞っているとは思えない神々しい舞でした。

社殿の畳の上で目覚めて、明弘氏はただちに今見た舞を踊りました。
試行錯誤を繰り返し、東の山に陽が射すころには3つの舞を完璧にこの世に蘇らせたといいます。

これが失われた3つの舞が千羽神楽に取り戻された事の次第で、未だに千羽に語り継がれる縁起なのです。その夜、明弘氏の夢に現れた人物は高橋家の5代前の当主であった高橋重次郎氏ではないかと言われています。
高橋家の大刀自は当時100に近い歳であったといわれていますが、明弘氏が披露した舞を見たとき、幼いころに見た曽祖父の舞だと言って泣き崩れたと伝えられています。

さて、失われた4つの舞のうち3つまでは復活しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』・・・
『千羽山譚』によると残る一つは『樵の舞』とあります。

しかし高橋家の土蔵からはこの舞に使われる樵面が発見されず、『樵の舞』だけは亡失されたままでした。樵面は熊野より落着した日野草四郎篤矩が持参した面とされ、明応七年(1498年)の銘が入っていたと、資料にはあります。
一時期、前述の翁面と同一視されていたこともあったようですが、翁面には永禄五年(1562年)の銘があり、別の面であると認識されるようになっています。

 

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